一秀くんの同級生のブログ

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裁判所無用論

植草さんの控訴審が昨日開かれ、弁護側の証拠調べ請求がことごとく却下されて結審した。
判決は一ヶ月後に言い渡されるというが、矛盾だらけの一審判決に何ら疑問を持たないのだとしたら、簡単に「控訴棄却」の一言で片づけられてしまうかもしれない。
そんな疑念が湧き起こり、今までの著しく不公平な裁判にもの申すべく、独自に「裁判所無用論」を展開してみた。

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日本では刑事裁判の有罪率は99.9%だそうだ。(4、5年前の数字)
これは欧米諸国と比べても特異な数字だ。
裁判所の役割は、検察の判断に間違いがないかチェックすることだと思うのだが、検察の判断にほとんど間違いがないなら、裁判所はいらないのではないかと言いたくなる。
どうせ今までも、検事の主張がほとんど間違いなく正しいと判断されてきたのだから、起訴されたら必ず有罪とし、量刑も検事が決めればよい。判事の仕事は、求刑に八掛けして量刑を決めるだけだったのだから。
裁判所の存在理由は何か?

有罪率が高い原因として、逮捕者に対する起訴率の低さが挙げられている。
逮捕しても慎重に取り調べてから起訴をするかどうか決めているという。
無罪判決が出ると検察官の出世に響くので、無罪になりそうな事件は起訴しないということだ。

無罪判決を出すと、裁判官の出世にも響く。裁判官の能力を評価し処遇を決める最高裁は、無罪判決を出す裁判官を冷遇するそうだ。このことは、司法が行政から独立していないことを示す。
本当は、日本は三権分立していないのだ。

判事と検事の人事上の交流=「判検交流」についてはあまり知られていない気がする。裁判官が数年間検察官をやって戻ってきたり、その逆があったりと、両者は実は「信頼関係」といってもよいほど緊密な関係にあるのだ。
また、裁判官は人手不足なため、一度にたくさんの案件をかかえ、一件一件をじっくりと検討するのもままならないらしい。だから無罪判決を書くには非常に勇気が要り、並の判事にはそんな気力も体力もなく、自動的に検察寄りの判決を出してしまう。

日本の検察は優秀であり、えん罪もないと一般に信じられてきたが、裁判官からも絶大な信頼を寄せられてきたことを、有罪率99.9%という数字が語っている。
ところが、富山のえん罪事件では、検察に対する信頼が裁判所に対する信頼と共に地に落ちた。足跡の大きさが違い、犯行時刻にアリバイがあったにもかかわらず、裁判官は有罪判決を出し、被疑者が服役を終えた後に、別の真犯人がいることが明らかになった。裁判官は、自白が強要され、捏造されたものであることを見抜けなかったわけだ。
嘘の自白をさせた捜査官や、インチキだらけの証拠で有罪判決を出した裁判官になんのペナルティーもないのは、どうしても納得できない。
この事件はたまたま真犯人が自供したから無実だとわかった稀なケースで、実はえん罪事件のほんの氷山の一角かもしれない。
裁判で有罪判決が出ても、本当は無実なのではないかと疑われる事件は、他にも多数存在する。

志布志事件や引野口事件では無罪判決が出たが(註1)、それで犯人扱いされた人が救われたかというと、そうともいえないと思う。
引野口事件では片岸みつ子さんが犯人に仕立て上げられ、みつ子さんの夫は任意の取り調べを受けた後に自殺した。精神的に追い詰められたのだろう。警察に殺されたといえるのではないか。少なくとも、誤認逮捕と取り調べがなかったら、自ら命を落とさずに済んだはずだ。取り調べでは、人権を無視した脅しや、よほどショックなことを言われたのだろうことは想像に難くない。
みつ子さんのご子息は、会社をやめて母の無実の訴えのために奔走した。
片岸家の方々の生活は、無罪判決を受けてももう元には戻らない。
別件逮捕による長期勾留もおかしいし、警察の画策によって同房に入れられたA子の供述も矛盾だらけで、そもそも証人として不適格だ。
しかも、違法ともいえる捜査をした側が罪に問われることは非常に少ない。
(志布志事件で「踏み字」をさせた警部補が「特別公務員暴行凌虐罪」に問われて有罪になった。)
3年9か月に及ぶ長期勾留の末、人生をめちゃめちゃにされ破壊し尽くされてからの無罪判決では遅すぎる。これでは、裁判所が無実の人を救っているとは言えない。

それならいっそのこと、裁判制度を廃止してはどうか。
三権分立もしてないくせに、西洋のモノマネをして茶番劇を続けるのはいい加減終わりにしてほしいのだ。
裁判所がなくなれば、莫大な人件費・経費が浮く。今までそれらが、検察の仕事にお墨付きを与えるためだけに使われてきたとはもったいない。
とは言っても、現実には裁判をなくすことはできないので、今までの検察べったりの裁判ではなくなる仕組みを作ってほしい。

要は、警察・検察の不正を取り締まる機関が必要なのだ。もちろん、行政から完全に独立した組織でなくてはならない。だから、今までの裁判制度を廃止するぐらいの抜本的な改革をすることを提案したい。
警察・検察の監査機関を設置し、別件逮捕による違法な取り調べや自白の強要、証拠の隠滅・捏造があれば、被疑者がこの監査機関に訴え出ることのできるようにする。場合によっては、警察官や検事の行き過ぎた捜査を罪に問える。
検察にとって不利な証拠を出さなくてよいという「最良証拠主義」はやめるべきだ。えん罪をなくすために、証拠はこの監査機関が公正に管理し、検事だけでなく、被疑者の弁護士が請求しても、ちゃんと提出してもらえる。
この機関は科捜研に対しても、検察と同等に証拠の調査を請求できるようにする。
今まで偽証罪は、被告人や被告側の証人にしか適用されなかったが、検察側の証人にも適用されるようにする。
今まで、弁護人が証人と口裏合わせをしていないか厳重にチェックされてきたように、検察側とその証人の口裏合わせがないかも厳重にチェックするべきだ。それが不可能なら、検察側に認めてきた口裏合わせを弁護側にも認めるようにする。今までの裁判所にできなかった、公平を第一とする監査機関が是非とも必要だ。

西欧の陪審制のモノマネをして裁判員制度を導入しても、ちゃんと機能するのかどうか疑問だが、せっかくなので職業裁判官の負担の軽減のために、裁判員にいてもらうのもよいかもしれない。

以上、不満だらけの司法制度に対し、自分の理想を述べてみた。
素人考えのため失笑を買うかもしれないが、これを叩きながらより良い制度についてお考えいただけたら幸いである。

(註1)引野口事件では、殺人・放火については無罪とされたが、別件逮捕のための容疑となった窃盗・威力業務妨害については執行猶予付きの有罪とされた。支援者のHPをはじめ、ニュース報道を見ても、このどちらも無実だとわかる。
http://www.hikinoguchi.com/
by hirarin-601 | 2008-03-18 13:03 | 警察・検察・司法

64年目の東京大空襲に寄せて

終戦の年の3月10日未明、325機の米軍爆撃機B29が東京下町の上空を襲い、2000トンの焼夷弾を落として民間人10万人余りを焼き殺した。

私の両親は当時10代で、どちらも江戸川区に在住し、それぞれの生家でこの日を体験した。江戸川区は墨田・江東・台東区のような被害の中心地ではなかったが、父の家は全焼し、母の家の前の道路には爆弾が落ちて大きな穴があいたそうだ。母は、当時江東区内の女学校に通っていたが、この日を境にクラスメートの半分がいなくなってしまったそうだ。亡くなった人々の遺骸は、数日間道路脇に放置されていて、それを通りがかりに目撃した母は、思春期の心に強い印象を持った。人が倒れたそのままの姿勢で真っ黒いマネキン人形のような状態で道端にゴロゴロ転がっていたという。

私はその話を聞いた当時はまだ幼くて、どういうことなのかよくわからなかった。
昨夜、TBS月曜ゴールデン『シリーズ激動の昭和 3月10日東京大空襲 語られなかった33枚の真実』というテレビ番組を見て、今は亡き母の言っていた情景が心の奥深く入ってきた気がした。
この番組のベースとなった写真は、当時警視庁のカメラマンだった石川光陽氏が撮影したもので、『東京大空襲』というサイトで見ることができる。

テレビでは加害者側にもインタビューをしていた。当時20歳代だったB29の搭乗員は、今でも毎年同窓会を開いているという。そこに番組スタッフが取材に行って石田氏の撮った写真を見せると、皆すまなそうな顔はするが、命令に従ったまでと言っていた。同窓会を開いて旧交を温めているという行為から察するに、自分たちを殺戮者集団とは思っていないようだ。
上官の命令に従って飛行機を操縦し、機械を操作して爆弾を落としただけとは・・・。
無知とは罪深いものだと驚愕する。

親達は、「日本人は戦争に負けたから、戦争はもうこりごりだと思ってるけど、アメリカ人は戦争に負けたことがないから、戦争の悲惨さがわからないんだね。」と言っていた。
アメリカの退役軍人をテレビで見るたびに、本当にそのとおりだと思う。
あの人達は死ぬまで、人々を虐殺したことを誇りに思い、自分たちが良いことをしたと信じて疑わないのだろう。
日本人はアメリカやソ連にはひどい目に遭わされたが、アジアの人々にはひどいことをしたということも忘れてはならない。
戦争に勝ったから人殺しが良いことで、負けたから悪いことだったというのもおかしい。
被害者であると同時に加害者でもある国民の子孫である私たち日本人は、「いかなる場合でも人殺しを正当化してはいけない」ことをよく知っている。
だから、武力を以て平和を唱えることの愚かしさを、辛酸を舐めたことのない無知なアメリカ人に対しもっと強く訴えてもよいはずだ。

銃を保有する民間人による乱射事件がアメリカでは後を絶たないのに、それでも「刀狩り」をしないアメリカという国は、日本とは違う価値観を持った国であり、むやみに迎合してはいけない。
兵器は抑止力の為にあるというが、武器を持った者は必ず使いたがることが目に見えている。

日本人のほとんどが、二度と戦争をしたくないと思っているのに、日本の政治は年々戦争に向かっているように思えてならない。
第二次大戦の時も、国民は戦争を望まなかったのに、軍部が国家権力を掌握して言論統制し、戦争に突き進んで行った。その愚行が、今再び繰り返されようとしてはいまいか。
自民党政府が好戦的なアメリカを支持しているのは国民感情から乖離している。
政府はマスコミを牛耳って、真実を伝えない仕組みを作り上げている。
これらのことは、第二次大戦時とよく似ている。

久し振りに実家の父に電話をかけ、あの焼け野原から、たったひとりで荒波に揉まれて生きてきた思い出話を聞いた。親達に比べれば、自分は楽に生きてきたと思う。今更だけれど、人生の半ばを過ぎた今だから、実感を持って当時の人々の苦しみを思う。
親達の歴史を子ども達にも伝えて行こうと決意した。
by hirarin-601 | 2008-03-11 17:46 | 管理人のつぶやき